・ひな祭りの歴史
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ひな祭りの歴史
「上巳の節句」「弥生の節句」とも呼ばれていたひな祭りは女の子がいる家庭で行われるお祝いの一つ。
これは中国から伝わってきた行事といわれています。
昔、漢の時代に徐肇(じょちょう)という男の元に生まれた娘3人ともが3日以内に亡くなってしましました。
ソレを知った村人達が酒を持ち寄り3人の亡骸を清め水葬したことが由来と言われています。
また、中国秦の昭王の時代には水辺に出て不詳を除くための禊ぎ・祓いを行う風習があり、これが日本に伝わったものが日本での行事の始まりだとも言われています。
これが平安時代になると陰陽師にお祓いをさせて自身に降りかかる災いを人型に切った紙に移して川に流す・・という風に変化していきます。
ヒト型は古来から使われてきたもので、呪いだけでなく人々の願いを託したものだったのです。
その後、江戸時代になると幕府は3月3日を「桃の節句」、5月5日を「端午の節句」と定めます。
2代将軍秀忠の娘で後水尾帝の中宮として入内した東福門院が雛の宴を催したと文献にも記されているそうです。
ただ、この頃はまだ貴族など上流階級だけで行われており、庶民の間で広まりはじめたのはそれから70~80年ほど後のことになります。
娘の厄を代わってくれる雛人形はその家の豊かさの象徴となり商家などではいかに華やかで豪華な雛人形を飾れるかを競うようになります。
これは庶民にとって憧れのものとなります。
ついには等身大の人形まであらわれる始末で、贅沢を警戒する幕府によって人形の大きさが制限されたこともあるんだそうです。
そのうち町民も豊かになるとひな祭りは浸透してゆきわが子の幸せを願う行事として定着していきます。
特に女性が旅行や嫁入りする道中、災いの身代わりになってもらおうと抱いて輿入りすることが慣わしになります。
公家や武士の上流階級では婚礼の嫁入り道具の一つに雛人形が入っていたそうです。
こうして娘の身代わりだったヒト型から人形に進化を遂げた雛人形は1体から男女対へと変化していきます。
一緒に飾られる調度品は嫁入り道具のミニチュアサイズになり大名家では嫁入り後初めての節句に内裏雛を飾っていました。
これが、雛人形が人型として川にながされるものから、男女対になりひな段に飾られる豪華なものに変わって行く歴史です。
現在では住宅事情や時代の流行などで人形の顔や形、着物など変化していってますが、親が子供の成長と健やかな成長を願う気持ちには変わりがないようですね。
次はひな祭りに関する噂と真実に迫ります。